今は否が応でも色々な情報が耳目に飛び込んで来るので、人体が普段どれほどのノイズに曝されているかという事について、私たちは耳学問でもって何となく分かっている。けれども、自分たちの感覚がそれら諸々のノイズとバランスする形で維持されているという点をあらためて考え直してみると、そうした何となくの認識が思いのほかぞんざいで、時に的外れであることに気付く。ノイズについて、不要で有害な排除すべき情報としての存在とは別の側面が見えてくるからだ。
市内の「砂丘館」へ行った時の事を思い出した。
自分以外には来館者の一人もいない平日の館内から土蔵の展示室へ入った時、作品を観ているうちに耳鳴りがしてきて、それが収まったら、今度はどこからか微かな連続音が聴こえてきた。それが自分の着けている腕時計の音だと気付くまでしばらくかかって、その間は音の出どころを探して誰もいない蔵の中をキョロキョロ見廻していた。厚い土壁で外部からの環境音が遮られた極端な静寂に戸惑いつつも順応した耳が、室内で唯一の音源である腕時計の音を拾っていたのだった。耳のまわりの空気が妙にモッタリとまとわりつくようなこの時の感覚は、某社のノイズキャンセリングヘッドホンの無音時のそれに似通っていた。
ここでオーディオに目を向けてみると、ノイズを遮断して、制震して、といったような音質や静特性向上のために何かを「する」方向とは別のやり方も見えてくるように思う。つまり、飛び込むノイズは飛び込ませて、震えるものは震わせるというような、極端に言えばそういった事なのだけれど、もちろん安全上必要な部分は押さえたうえで、かつやり過ぎないようほどほど(ここがいちばんの肝要かも知れない)にバランスをとって、何も「しない」方向でのオーディオいじりというようなものもあっても良いのではないだろうか。
極端な静けさは、騒々しさとは別にこれまた人がリラックスできない状態なのだから、オーディオの中にもうるさ過ぎず静か過ぎずの、五感が均衡状態(=リラックス)を保てるちょうど良いノイズの濃度というか“静かさの按配”というものがあるのでは?という事で。





















